MSWの仕事に就いてもうすぐ10ヶ月。
病院内や外部の医療福祉関係機関のスタッフの方、患者さん、そのご家族…といった、毎日多くの方と顔を合わせているわけですが、顔を上げて、目を合わせて話をするということが、基本的な対応であるにもかかわらず苦手としていたんです。でも最近は、それが自然にできるようになりましたし、自信を持って関われているように思います。
話すことについても(うまく伝わらなかったり、伝わりにくいことで自信をなくしたり)、こわさ、不安、緊張を強く感じていた時期もあったけれど、個別面談、電話相談、勉強会等の司会など…日常にその場面が増えていくと、「慣れ」に変わっていくんですね

伝わりにくいときは、“伝えたい気持ち”で、ゆっくり丁寧に言い直せばなんとかなるものです(わたしが口唇口蓋裂という病気によって体験した、「発音」の困難という立場に関していえば)。気にしなきゃいけない、気にしたほうがいいと思えば、どんどんマイナスの方向にいってしまいますし、安心を素直に受け入れて、自分から顔を上げていけたら、それはとてもステキな顔ですよね。

わたしがこの仕事を選んだ以上、克服していかなければならない課題だったのですが、このことは人と関わる仕事のなかで最低限の姿勢だと思いますし、経験を重ねていく上で、「知識」ももちろん大切ですが、「技術」をさらに磨いて、患者さんやご家族の抱える不安を表出させ受容し軽減する手助けをしていきたいです。
人間誰でも緊張するときはあっていいと思うので、心だけは塞がないで、今のペースで

みなさんも下を向いていたら、なんとか顔上げてみてくださいね。

実習やボランティアを通して、社会福祉サービスを必要としている方々には、思うように発揮できていない力があり、さらにこの力は、ケース(個々)に合った方法を取り入れていくことで、その効果が期待できると感じてきました!!

当事者が自身で課題に対処する力を獲得するために、潜在している力を引き出し、おかれている社会システムから緩和されていくことを目的として、近年、エンパワメントという言葉が注目されています。

〈エンパワメントの考えが登場した背景〉
1960年代当時のアメリカでは、黒人というだけで差別を受け、それが続いたことで本来の自分の力を信じることができなくなり、無力の状態に陥った人たちが顕著でした。こうしたなかで、B.ソロモンは、著書『黒人のエンパワメント〜抑圧されている地域社会におけるソーシャルワーク〜』において、彼らが本来の力を取り戻し、価値のある存在として、地域に受け入れられるような関わりが必要であるとの見解を示しました。これが、ソーシャルワーク(社会福祉援助技術)の領域に導入された、エンパワメント概念のはじまりです。ソロモンは、偏見という抑圧的な環境によって起こる、当事者のパワーの欠如に着目したのです。
また、J.ポール、D.ステドマン、G.ネウフェルドらは、社会福祉のサービス利用者が背負う否定的イメージの要因を、次のように説明しています。
社会福祉のニーズを抱えている人たちは、援助を受けなければ生活ができないという見方によって、劣っている、役に立たないといったレッテルが貼られてしまいます。そして、レッテル通りの役割が期待され、それがプレッシャーとなっていきます。また、当事者への社会的理解や、支援システムが十分に整っていないために、彼らは社会の一員としての活動に参加できず、自己をプラスの価値がある存在として捉えられなくなっていきます。自信をなくし、うまくできないことばかりが増えていくと、社会から切り離された生活を強いられることになります。管理された場所では、個別性が無視され、やがては、それに対抗する力をも、失ってしまいます。彼らは、社会が抱いている誤ったイメージを受け入れ、それを払拭することをあきらめてしまうのです。よって、この自己価値剥奪の過程を断つことが、エンパワメントにつながるステップであるとしています。

人には、どんな状況にあってもそこから脱却し、変わりたい方向に向かえる力があり、周囲には、その力を獲得できるようにサポートしていく力があります。当事者の力に、共に生きる地域の方々の思いやりが加わることによって、その力は、温かさを増しながら、どんどん発揮されていくものだと思われます

自分は意識していないつもりのことであっても、周囲が気にしていることによって気にしてしまい、それが、劣等感や疎外感になっていくこともあります。反面、自分が考えているほど、相手が気にしていないこともあります。
自己を肯定し、生活の質を高めていける感覚を身に付け、それに向かえる開放感を覚えていくという、エンパワメントを引き出せる(引き出す)コミュニケーション。これはきっと、社会福祉サービス利用当事者、非当事者問わずに、人々の関係形成をよりよいものにしてくれるヒントになるのではないでしょうか??
わたしたちは、コミュニケーション (相手との関係形成) がうまくいかないと感じるとき、その原因が自分ではなく、相手にのみ付随しているものだと錯覚しやすいのではないでしょうか?またその相手がいわゆる障がい者である場合、その理由を、障がい、障がい者に転移してしまう危険性は、大変高いのではないでしょうか??
しかし、気持ちの共有とは、共にその状態を有していくということ、つまり、「両者が一緒にコミュニケーションのしやすさを検討していく」ことが必要なのではないかと、わたしは声を大にして言いたいと思います!!

コミュニケーションの不安としては、うまく話せるか、話してもいいのか、相手に受け入れてもらえるかといったことがあげられますよね。またこれらは、肯定的な自己概念(わたしが思う、わたしの部分)が弱まっているときに強く感じる傾向があるのではないでしょうか?
聴き手は、相手の言葉だけではなくその背景にある感情などにも目を向け、話し手は、自分の伝えたいことや心にあることを明確に表現できることが、コミュニケーションの楽しさや話せたことへの自信となります。

自己を肯定し、生活の質を高めていける感覚を身につけ、それに向かえる開放感を覚えていくためには、当事者の抑圧となっているものを取り除いていくことが必要になります。わたしは、「お互いがいかに受けとめあえるか」ということがコミュニケーションの焦点だと思っています。
思いを表現できたときにも、肯定的に評価をしてもらえることが、不安の払拭につながっていきます。よって、自己開示 (自分を開いていく) という一歩を踏み出すことが、不必要な力を抜き、自分を楽にしていくのです。

自分の状況を恥じたり隠したりせず、何に困っているのか、縛られているのかをありのままに表出できる場所を見つけていけるようなコミュニケーションを図っていくことが、幸せなコミュニケーションに続いていくと思われます
以前参加したボランティアのなかで、ある出会いありました。その方は、話し言葉に聞き取りにくさがあり、それをスムーズに受け取れない自分が悔しく、申し訳ないとも感じました。わたしにとって「相手の視点に立ったコミュニケーション」に強く疑問を持った出来事(2004年12月14日参照)で、社会福祉実習の機会に、このことと向き合いたいと思いました。
実習初日、偶然その方と再会しました。ショートステイでの利用だったこともあり、ほとんど関わることができなかったことが悔やまれるのですが、相手の視点に立つということがどんなことか、自分なりに考えることができました。それは、下手に構えようとせずにその人そのままを受け入れた関わり、非言語からも気持ちを受け取りたいという、相手を思いやる姿勢なのだと思います。

コミュニケーション(communication)とは、話し手と受け手の二者が感情と思考を伝え合う行為です。その語源は、ラテン語のcommunicare(共有する)であり、両者がメッセージを共有することによって、その形ができあがっていきます。これは、社会生活を営む人と人とが、つながりを形成していくために不可欠なことといえます。
コミュニケーションにおいて、「聞き返し」はよくあることですよね。これは、特別・・・という意識が入るものではないとわたしは考えています。そんなとき、気持ちが楽に感じる、相手との空間を続けたいと思える、楽しいコミュニケーションを追求できたらと思いませんか?
コミュニケーションは、話したい言葉、伝えたい思いがあり、それを聞きたい、受け取りたいという気持ちが向き合ってこそ成立します。関わりのなかでお互いを知り、心が開かれていくと、発した言葉を越えて、表情や視線からも気持ちを通じ合わせられるようになります。それは次第に“慣れ”へと発展して、両者の距離を近づけてくれます。
このように、自己を表現し他者を理解する手段は、固定されているものではなく、気持ちを送受信しやすいように両者が工夫をしながら生み出していく、こうした図式のようなものがあるのではないでしょうか?
意思の結びつきはどうしたらできるのか、この答えはきっと無数にあるのだとわたしは思っています。また、コミュニケーションのさまざまな形があることで、人と関わる楽しさも広がっていくのではないでしょうか??
わたしの21年間のなかでの気持ちの変化、今の自分になれたきっかけについて触れてみたいと思います。

CLCPの手術で一番新しいもの (最後に行ったもの) が11歳。歯列矯正等、一通りの治療に区切りをつけたのが17歳でした。
そんななかで、自分の心に苦しさを感じるようになったのは、高校生になってからでした。それまではきっと、物事を素直&単純にとらえ、受けとめることができていたのでしょう。
小さい頃から、自分を表現すること、そのなかでも後ろ向きな感情を表出することは、特に苦手でした。一人では歩けなくなりそうなときでも、誰かに寄りかかることを知りませんでした。頼ってもいいことに気づけませんでした。

わたしが、大きな不安と痛みを最初に意識しはじめた、高校2年生の初夏。朝起きると、おなかの調子がよくない。今日も一日が始まってしまうという不安。ささいなことにも緊張してしまう。そんな状態でした。
それでも休憩という言葉を知らないわたしは、「痛みに負けないためには学校を休まない」という気持ちを強く持ち、とにかく耐えるということに必死でした。
そのときの環境が影響していたのかもしれませんが、痛みの原因と向き合うことで余計に息苦しさや体調の悪化を招いてしまったら・・・という怖さが優先して、心当たりはあっても、これといった向き合い方はしませんでした。なかなか寝付けなかったりしたこともありましたが、3年生の春がやってきた頃には回数も少なくなっていたし、忘れることができる (意識しなくてもいれる) 日もでてきました。
皆勤賞をとれたときは、自分への達成感でいっぱいでした。

大学に入学してまもなく、ある先輩と出会いました。人に頼られることが多く、苦しいときも心のなかをその通りに表現することが苦手なわたしに、その殻を破ること、自信を持っていいこと、自分のペースで表現しながら進めるようになることを教えてくれました。こちらの先輩は、「Happyコミュニケーション」1&3〜5にも紹介させてもらっていますが、わたしにとって、すごく大きな安心をくれた方でした。苦しい過去は余計に自分のなかだけにとどめておきたい、おくしかないだろうな・・・そんなふうに感じていたのですが、そのことさえ自分の言葉で表現し、心の奥から本当の意味で楽になっていける、こうした勇気をいただきました。
先輩との時間のなかで、痛みや不安を感じたときの気持ちみたいなものが、“この痛みもありながらの自分なんじゃないかな??” というとらえ方に変わっていきました。《その状態から逃れる》ということだけを考えるのではなく、《ゆっくりでもその状態を受け入れてみる》。これによって自分に温かくいることができるし、相手の温かさ&優しさをも感じやすくなる。

記憶や感覚がある限り、体験を清算したりなかったものにすることはできないと思います。でも、転んだ場所から起きあがることや痛みを温かいものにしていくことはできるのではないでしょうか?
無理に苦しさを思い出そうとしたり、向き合おうとしなくていいんです。そのことも自分だったんだ、自分になるための体験だったんだと思えるようになるまで、ゆっくりしてもいいんです。自分のなかに起きたいろんな出来事に対して、心に反しないように付き合っていけたら、自分や相手に伝えられる安心が増えていくんじゃないかと、わたしはそう思っています