わたしは口蓋裂治療のために、11歳のときに腸骨(左)から顎裂部への自家移植をしました。そのため、外見的にはほぼわかりませんが、左右の腰の骨のバランスが微妙に違います。そのこともあって、「あまり重いものを持たないように」「その部分を締め付ける格好をしないように」「冷やさないように」などと言われてきました。ですが昨年の11月頃から、寒さとともにその部分がときどき痛んでしまいます。体調がいい日が続いていたのですが・・・
夕方から痛くなってしまって、かなり不安でいっぱいでした。
普段はこのことを気に留めずにいられるのですが、不安な気持ちになるとどんどんその波が広がっていってしまって、痛みもすぐには治まらないので余計に、苦しさをつくってしまいます。わたしは気持ちの切り替えが得意ではないので、こんな日は早めにゆっくり休もうと思います。

ちなみに先日、いくらかの整形(形成)外科のサイトの先生に、わたしの症状について相談に乗っていただいた結果、次のようなお返事をいただきました。

*今は縫合に吸収性の糸を使っているけれども、わたしの場合は8年前(来年の3月で丸9年)なので、非吸収性の糸を使った可能性が高いということ、それが何年もしてから反応して炎症を起こすことがまれにあるということ(その場合はいずれ表面的な赤みや腫れがでてくるので、わたしは今のところ大丈夫)
*手術年齢が11歳なので、左右の骨のバランスが悪くなり負担がかかっている
*手術で切断されていた細胞の回復してきたこと
*過敏な神経症や冷え性がたまたまその部位であること

こちらはメールだけで推測していただいたお答えなので、実際に病院に行ってみると、より診断がしやすいのだと思います。その部位を温めたりさすったりゆっくり横になったりすることで回復することも多いので、延ばし延ばしにしているところがありまして・・・。
ですが、自分の身体は自分で守っていくためにも、無理だけはしないでいきたいです。
『「おめでとう」と言ってほしい。普通の出産と同じように。
一番大切なのは、一つの命が誕生したというすばらしいことです。そのすばらしいことが、障害をもっているということで置きざりにされては悲しすぎます。』
引用文献
野辺明子・加部一彦・横尾京子編『障害をもつ子を産むということ 19人の体験』(中央法規,1995年)112頁。

この文章を読んだとき、すごく共感したことを覚えています。医療関係者をはじめとして、周りの方の配慮一つで、障がいを知ったときの親の動揺や不安は違ってくると思います。また、命の価値は、病気や障がいで左右されるものではないし、されてはならないと思います。このことだけは、家族や友達や周囲の方、そして本人が病気を受け入れられずにいるときも、心にいれておくべき気持ちなのだと思います。
いろんな方との関わりやさまざまな出来事のなかで、手探り真っ最中のわたしがいます。不意に苦しさがやってきて、それはわたしを不安にさせます。周りの視線をどうしても感じてしまい、顔を上げることが苦手になります。CLCPを、自信がないことと結びつけることがうまくなります。苦しんでいたわたしに、先輩がくれた大切な言葉があります。

『意識しないようになれば一番いいと思うよ』
先輩は、意識してしまうという感覚をすぐに変えることは大変なことだとわかってくれて、それでも自信を持つことは大切なことなのだと教えてくれました。
過去は薄れても、完全に消すことはできない。それなら、意識しないようになることが一番だと、わたしも思います。勇気を出したい。壁に一歩ずつ手をかけてみたい。自分の歩幅で楽な状態を探していきたい。そんな毎日です。
「目の不自由な方に音の出る信号機を」というテーマで、募金呼びかけのボランティアをしました。これを言い換えると、当事者にとっての物理的なバリアをなくすということ。そのためには、相手の不便な部分や助けてほしいところに手を貸したい、力になりたいという気持ち、つまり心のバリアの軽減が必要条件になってくるのではないでしょうか。募金は、思いやりが形になったもの、心のバリアが壊れていくときの気持ちなのではないかと感じました。

その状況になって気づくこと、その状況にいないから感じる思いもあるかもしれません。相手のために・・・と考えながら何かをすることは難しそうにみえますが、その気持ちからの行動は、きっと相手に伝わるはずです。心のバリアフリーの瞬間が増える分、笑顔も広がっていくと思います。地域に共に生きる誰もが、安心して暮らせる街になりますように。
自分の気持ちがグチャグチャになって、
そんな自分を嫌ってしまうときがある。
気持ちが揺れていること、固まらないことがいけないとしたら、
心で感じる感情すべてがよくないものになってしまう。
相手を傷つけたくないと思う。
自分も傷つくことを避けたいと思う。
でも、悩んで迷って傷つきながら、わたしたちは成長していく。
その体験こそ、成長のチャンスになる。
すぐに答えを出そうとか、前に進もうって考えなくても、もっと楽な気持ちになっていいときがある。そんな時間が必要なときがあるんだと思う。
楽な気持ちの場所まで行ってから、
自分はどうしたいのか、少しずつ形にしていけたらいいよね。
自分ががんばっているときはがんばり通そうとしちゃうよね。
それが努力している人間の証拠に思えそうで。
でも、十分がんばっているあなただからこそ
苦しいんだよね。
それをさらに頑張りすぎて、
つらくなってしまう道を自分から選ばなくていいんだよ。
つらくなるためにがんばるんじゃないんだよ。
何事もほどほどに。ペースを大切に。
これが一番☆
一昨日、一足早いクリスマス会に参加してきました。これは、障害者生活支援センターが主催しているもので、身体・知的に障がいを持つ方、その家族、職員、ボランティアが一緒に、食事やゲームをしたりして、楽しい時間を過ごしました。
そのとき感じたことは、『言葉に話しにくさ、伝わりにくさを抱えている方に、一番楽な状態で接することができているのか』ということでした。わたしは、CLCPの後遺症で、少なからず、言語にいわゆる障がいがあります。このことで、つらい思いもしました。その体験があるからこそ、相手を思いたい、相手の視点に立ちたいという気持ちが強いわけですが、果たして自分は、その気持ちのままの接し方ができているのでしょうか。

このことについて、普段から現場で利用者さんと関わっているセンターの職員に相談に乗っていただき、『いわゆる言語障がいの方との会話において、共通していえる大切なこと』についてわたしなりに考えてみました。
一度で聞き取れなかったときの聞き返しは、いわゆる健常者同士の会話においても、日常的にあり得る行為です。この場合も含めて、最も注目したい点は『聞き返し方』なのだと思います。
「ちょっと聞き取れなかったんですけど、もう一度話していただけませんか?」という返し方や、相手が話してくれたことを推測して、「○○ということですか?」などであれば、それほどは不快感を与えないでしょう。これがもし、「何を言っているか(言いたいか)わからないんですけど・・・」であればどうでしょうか。この聞き返し方は、場面によっては適切と感じる表現かもしれません。しかし、いわゆる言語障がいを抱えている方であれば特に、話すことへの不安や緊張感、さらには劣等感を持たせてしまう可能性も否定できないのです。
相手は、聞いてほしくて話してくれているということ。それなら聞く側は、相手の気持ちを汲み取ろう、受け止めようという姿勢が最低限のこととして必要なのではないでしょうか。『相手にとって、楽な状態』には、接することの繰り返しで近づいていけると思います。自分の状態も含め、改めて、「伝え伝わりあうこと」(言語での場合)について考えさせられました。
『体験は財産になると思うよ』

先輩がくれた言葉です。この言葉に出逢ってから、つらいときこそ自分が成長できるチャンスだと気づき、壁とどんどん向き合っていこうと思えるようになりました。
「どうしよう」と思っていたことが、「なんとかなる」と構えられるようになりました。
利用者さんの忘年会があり、身体障害者療護施設に行ってきました。
午前中は、ついたお餅を一口大にちぎって丸め、お雑煮、あんこ&きなこ餅の準備をしました。そしてお昼に、お餅と弁当をみんなでいだだきました。
嚥下障がいのおばあちゃんは笑顔が素敵でした。目が不自由なおじいちゃんはすごく歌がうまくて(ご飯のあと、利用者さんのカラオケ大会がありました)、車椅子のおばさんは、化粧をしてもらった顔が嬉しそうでした。
わたしが共有した時間のなかで、利用者さんにもらったもののほうがはるかに大きかったと思います。
みんな一生懸命生きていた場所。生きているって、たとえ不自由があってもすごく楽しくて、それだけで価値があって、輝けるんだなって。

『障害は不便である。しかし不幸ではない』
       byヘレン・ケラー、乙武洋匡さん
この言葉の意味を心から感じた日でした。
自分が話して自分に聞こえる声と相手に聞こえる声は違っています。自分の声がどんなふうに相手に聞こえているのか、自分にはわかりません。ここまではすべての人に共通することですが、発音がうまくできない人にとっては、不安を抱える素になってしまいます。初対面の方には、「ちゃんと伝わっているのかな?」と感じ、初対面ではない相手に対しても、「今の言葉は聞き取りにくくなかったかな?」と思ってしまうのです。
この背景には、発音を何度も聞き返されたことや誤って聞き取られたこと、わかってもらえず、からかわれたりした経験があります。相手にどんな反応をされようと、この発音しかできないのです。これが、わたしなのです(わたしの場合は、発音に障がいがあると感じたことがないと思ってくれている人もいるので、いつも話している人にとっては特に気にならないようですが、初対面の相手には聞き取りにくい部分もあるようです)。こうしたことが重なると、自分の殻に閉じこもってしまい人と話すことが怖くなります。わたしも何度もこの気持ちにかられました。話す場を避けたくなりました。劣等感や疎外感を感じました。「わたしは話すことを控えたほうがいい、存在を隠したほうがいい、人前に出てはいけない」・・・こんなふうに感じ、生きていくのが怖いと思ったこともありました。
自分は大丈夫なのに、意識していないつもりなのに、周りが気にしていることによって気にしてしまうこともあります。また、数年前の手術跡である 腸骨(脇腹に近いところかな?)が痛み出すときがあり、それによって不安を感じることがあります。わたしは大学に入るまで、一時的に気にすることはあっても、ずっと悩んでしまうことはありませんでした。大学に入ってから、手術跡に違和感を感じたり、痛み出すようになり、どうにもできないもどかしさに出会ってしまったような気がします。また、講義を受けたり様々な知識を吸収するなかで自分を知る機会が増え、意識につながったのかもしれません。
心の傷や不安を抱え、そのなかで自信を持つことは簡単ではないかもしれませんが、変わりたいという気持ちが強ければきっと自信につながります。 わたしもこの真っ最中ですが、少しずつ成長していけたらと思います。
口蓋裂と診断されたとき、両親は驚きや戸惑いを隠せず、対面したときには実感として失望や不安に包まれるでしょう。しかし、わからないことは医師や看護師に質問し、心の悩みはカウンセラーなどに相談し、自分たちのところに生まれてきてくれたかけがえのない我が子のために深い愛情を注ぎ、前向きに育てていくことが大切です。周囲の理解も、心の安定になると思います。また、両親のこうした姿勢が、子どもの明るく元気な性格形成や、出会うであろう困難を乗り越えていく力にもつながります。

子どもは、自分がうまく話せていないことを知ったとき、話すことへの劣等感や疎外感を持ってしまいます。発音がうまくできていないときに、無理に言い直させようとすることは子どものそうした意識を強くさせてしまいます。また、言い直しをさせることで正しく言えるものでもありません。よって、うまく話せたらほめること、話すことが楽しみになるようにすることが子どもへの自信になります。一生懸命話していることを一生懸命聴こうという気持ちが大切です(「聴く」は、耳を傾けて気持ちまで受け取ろうという姿勢です)。

集団生活が始まると、発音が違うことを指摘されたり、からかわれることがあります。このことで、話すことが嫌いになったり、伝わらないイライラ感、疎外感を感じてしまいます。だからこそ、家族とのコミュニケーションを楽しくできることが、学校生活を送る上での助けになります。聞き取りにくかったときは、話の前後や日常行動から内容を推測してみてください。理解しようとして聞き返すことはOKですが、本人の意識が高ぶらないような配慮も必要です。

人の身体で、目がいく場所としては避けられない顔に手術の傷跡が残ることで、顔への劣等感を持ってしまうことがあります。初対面の方と会うときや同じ体勢でいるとき(電車の中などの人ごみや、人前に立つときなど)は、傷跡を隠したいという気持ち、場を避けたいという気持ちになったりします。顔を上げることは勇気が要るかもしれませんが、卑屈にならなくて大丈夫です。病気を乗り越えるために、赤ちゃんのときから頑張ったのだから!意識が緊張になってしまうので、考えすぎないでときには深呼吸をしてください。

周囲の視線を感じたり、いじめを体験し、それが心の傷になる場合があります。 勇気を出して心の殻を破り、傷を越えていくのは時間がかかりますが、痛みがわかるからこそ、心の強さや優しさがある人間になれます。

恋愛や結婚、就職に対して、口蓋裂であることを理由にしてしまいがちです。何でも挑戦する気持ちを持ち、得意なものや自分らしさを最大限に生かすことで自信につなげることができると、こうした壁を壊していけると思います。

成人になってからも、過去の体験を思い出して苦しくなったり、泣きたくなるときがあるかもしれません。 不安を感じるのは、悪いことではないのです。そのときは、気持ちを吐き出せる場所を作り、思いきり発散して下さい。好きなことに打ち込むこともいいでしょう。また、誰かに抱きしめてもらったり、ただそばにいてもらったりして、自分なりに心の安定を保っていくといいと思います。