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カウントstart 2007.2.25
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わたしは手術跡について、「赤ちゃんのときに階段から落ちたんだよ」と教えられていました。そのときはそれで納得しました。「命が無事だったなら、傷が残っても仕方ないかも」と。ですが、言葉の教室で、同じ場所に傷がある人に出会ったり、また、わたしの場合は1才上のいとこも同じ病気(このときは同じ傷だと思っていました)ということで、階段の話は違うのではないか??と思うようになりました。そんななかで、親に傷の理由を切り出せないまま、発音の不安なども一人で抱えたまま、時間だけが過ぎていきました。

高3の秋、進路を決めるときに、「病気で生まれてきたので、それを治してもらった傷」だということを聞かされました。「ごめんね」という言葉に、涙しか出ませんでした。何度も謝られると、病気=悪いこと、避けるべきことなのだと感じて、余計に苦しくなったのです。「本当のことを教えることで傷つけたくなかった」ということですが、この状態で生まれなければ今のわたしはいないわけなので、真実を知っても親を恨むようなことはしなかったし、つらいことがあったときは、優しさに変えていきたいという気持ちを持つことができました。
ただ、「治る病気だからよかったんだよ」と言われたときは疑問が残りました。確かに、 割れていたところは「治る」(くっつけることでできる)かもしれません。ですが、そのことで受けた心の傷は治りません。自分が受けとめて、越えていくしかないのです。「治る病気だから」というのは、医学的に治療が難しい病気の方と比べた発言です。親としては、わたしを励ますための言葉だったのかもしれませんが、心の苦しさはその人でなければわからないし、だからといって比べるものでもなく、ちょっとその表現はなかったんじゃないか??と感じました。
病気や障がいの打ち明けられ方やその時期は、親と子どもの両者が悩む問題です。だからこそ、一つ一つの表現に気を配る必要があると思います。

障がいとは何か、その意味として広辞苑には、「妨げ」「邪魔」と書かれています。しかしこれは、何に対する妨げなのか、どの程度のものか、それを誰が決めるのか、誰にもわからないし、決めることもできないのではないでしょうか?
そして、妨げ(CLCPの場合は発音や噛みにくさなど)が生じるのは、本人のなかであり、社会のなかに、いわゆる障がい者という原因で妨げがあるとしたら、それは社会が当事者を理由に作ったものになるのではないでしょうか??

障がいの「がい」を平仮名で表記している理由について
この言葉は、「障碍」と記されていて、後に「障害」という書き方になりました。しかし、「害」という字は、何か悪いものを発していて近寄りがたい、こうした観念を持たれやすいのです。当事者として、「害」をつけられたくない、どうして「害」をつけられなくてはならないのかという見解から、近年は「障がい」という平仮名での表記が出始めました。
このように「障がい」は、見苦しいもの、排除すべきものといったマイナスの側面が強く、この言葉通りに考えるならば、障がい者はこうした“障がい”を有する方々ということになってしまいます。事実と異なっていても、わたしたちの日常生活においてイメージや先入観が与えるものは大きく、同じ意味でも表現によって、受け取る側の感じるものが違ってきますよね。またこれは、当事者の生活のしづらさになっていたり、非当事者との壁を厚くしている可能性が非常に高いのではないでしょうか。

相手を侮辱、中傷するという主旨の使い方でなければ、いろいろな言い方があって使い方はそれぞれだと思います。アメリカでは、「チャレンジド」という語が、使われ始めているようです。受身形なのは、「彼らは神様から選ばれた挑戦者」という意味からだそうです。
わたしがここで「障がい」と記す意味もそれほど深いわけではありません。その辺はご了承ください。
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